日本馬香港遠征ヒストリー

シャティン競馬場

 1988年香港招待カップ(Hong Kong Invitation Cup)が香港・シャティン競馬場で開催された。これが現在の香港カップの前身となる競走である。その後開催を重ねるごとにレース数が増え、賞金も増額。参加国も拡大し、日本馬に初めて招待状が届いたのが1992年だったが、同年11月にシャティンで馬インフルエンザが発症。12月末まで開催が中止になり、1993年4月に順延されて開催された香港国際ボウル(芝1400m)に出走したホクセイシプレーが、香港に遠征した日本馬第1号となった。遠征に不慣れな日本勢は当初、なかなか結果を出すことが出来なかったが、逆にこの頃の香港遠征でアウェイにおける戦い方のノウハウを蓄積したことが、1990年代終盤に欧州で日本馬がG1制覇を果たす礎になったと言われている。

経験を積み重ねることの重要さを実証したのが1995年のG2香港国際カップに出走したフジヤマケンザンだった。それが3度目の香港遠征となった同馬が見事に優勝を果たし、グレード制導入以降では初めてとなる日本馬による海外重賞制覇を達成している。

 海外遠征は、複数の日本馬がチームジャパンを組んで出かけて行くと結果が出やすいことが証明されたのが、2001年だった。この年、6頭という過去最多の出走馬を送り込んだ日本は、G1香港ヴァーズをステイゴールドが、G1香港マイルをエイシンプレストンが、G1香港カップをアグネスデジタルが制覇。3度にわたって場内に君が代が流れ、カップの際には国際放送のアナウンサーが、「既に皆様にもお馴染みのメロディーです」とコメントしたことをよく覚えている。その後、2002年・2003年と、春の香港を舞台とした国際競走のG1クイーンエリザベス2世Cを2連覇したエイシンプレストンの鞍上の福永祐一騎手は、香港にも多くのファンを持つ存在となった。

 香港国際競走で、日本馬にとって難攻不落の砦として残されたのが、G1香港スプリントだった。2011年までこのレースに挑んだ延べ14頭の日本馬のうち、実に9頭が二桁着順に敗れ、2011年にカレンチャンが5着になるまで、掲示板に載る日本馬すらいなかったのだ。歴史を変えたのはロードカナロアである。2012年のG1香港スプリントを快勝して念願の日本馬初優勝を果たすと、2013年には後続に5馬身という、短距離戦においては決定的な差をつけて連覇を達成。世界のロードカナロアとなった。

(合田直弘=文)