日本ダービーこと東京優駿は、競馬における最高峰の戦いであり、その栄光を手にした人馬は例外なく我々に希望や感動を与えてくれる。近年の勝ち馬を振り返ってみても、そこには様々な物語が存在していた。

震災を乗り越えた荒ぶる魂 人々に勇気を与えた「意志の力」

オルフェーヴル

不良馬場で行われたサバイバルレース。皐月賞馬オルフェーヴルは直線でライバルに囲まれ万事休すと思われたが、次元の違う脚で馬群を抜け出し勝利。他馬と接触しながらもまったく怯むことなく走り切った。

陣営の尽力が成果となって現れ狭い馬群をこじ開けてきた


 この年の3月11日に東日本を襲った大震災は、競馬にも大きく、深刻な影響を及ぼしていた。一部の開催は中止され、重賞レースのスケジュールが変更された。皐月賞も1週遅れとなり、23年ぶりに東京競馬場で施行された。社会全体が先の見えない暗闇と格闘する中、この年に3歳を迎えた馬たちによる11年クラシックは進んでいった。

 史上最大の混戦とも謳われたこの世代の牡馬戦線だが、一冠目が終わるとその構図は一変していた。それほど、皐月賞におけるオルフェーヴルの勝ち方は圧倒的だった。

 しかしデビューからのオルフェーヴルの歩みは、ダービーの本命馬はもちろんのこと、のちに三冠馬となり、凱旋門賞に挑戦して日本中を熱狂させるような馬になることを想像させるものでは決してなかった。

 新馬を勝ったはいいが、直後に騎手を振り落として口取りもできなかった。折り合いに大きな不安があり、勝負所で動くことができず、差しては届かないレースを繰り返した。京王杯2歳Sに至っては、後方のまままったく伸びず、10着と大敗を喫していた。

 その京王杯2歳Sの後、池江泰寿調教師は思い切ってオルフェーヴルを放牧に出すことを決断した。栗東からほど近くに位置する、開場してまだ間もないノーザンファームしがらきで、オ陣営の尽力が成果となって現れ狭い馬群をこじ開けてきたルフェーヴルは気性面の調教を念入りに施された。帰厩後のレースでも、そうやって積み重ねてきたものが無駄にならないよう、池添謙一騎手が我慢強く、騎手との共同作業としての競馬というものを教えていく。

 その成果がついに形となって現れたのが、皐月賞トライアルのスプリングSだった。やはり震災の影響で1週遅れになり、中山ではなく阪神競馬場での施行となったこのレースで、オルフェーヴルはそれまでになかったほどスムーズな走りから豪快な差し切り勝ちを収める。まさに「覚醒」という言葉がぴったりの勝利だった。そして続く皐月賞も制したオルフェーヴルは、本命馬としてダービーへ臨んだのだった。

 季節外れの台風の影響による雨に見舞われ、不良馬場の中で行われたダービー。オルフェーヴルは直線、馬群の狭いところをこじ開けるように力強く割った。金色の馬体も、顔の大きな白い流星も泥にまみれていた。

 この後、オルフェーヴルに待ち受けているさまざまな困難と波乱万丈のドラマを、もちろんこの時点ではレースを見ている誰もが知る由もなかった。

 でも、このとき抜け出してきたものが、もしかしたらたんなる1頭の馬ではなく、「意志の力」そのものであるような感触もまた、確かに存在した。

 もしも11年ダービーのレースを見返した人が、何か不思議な勇気のようなものを得られたとしたら。それはたぶん、そういう理由なのだ。